2015年08月08日

「いのはな慰霊の集い 三十年のあゆみ−中央本線四一九列車銃撃の体験記と日米資料」(揺籃社)が、8月5日出版

 1945年8月5日、現在のJR中央線高尾駅の西にある八王子市裏高尾町湯(い)の花トンネル付近で、米軍戦闘機による列車銃撃があり、乗客60人以上が死亡しました。

 その列車銃撃の体験記を収録した冊子「いのはな慰霊の集い 三十年のあゆみ−中央本線四一九列車銃撃の体験記と日米資料」(揺籃社)が、銃撃の日から70年にあたる2015年8月5日に出版されました。

 戦争の悲惨さを歴史から学び、私たちは二度と戦争を起こさず、平和の大切さを後世に伝えていかなければいけません。

清水工房・揺籃(ようらん)社 http://www.simizukobo.com/

【記事】
湯の花事件を後世に 八王子の住民ら体験記まとめ出版
(2015年8月5日 東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20150805/CK2015080502000157.html

列車銃撃の体験記を収録した冊子を手にする斉藤さん=八王子市で
いのはな慰霊の集い 三十年のあゆみ.jpg

 太平洋戦争末期、八王子市裏高尾町の湯(い)の花トンネルで起きた米軍戦闘機による列車銃撃事件。乗客六十人以上が死亡した事件を後世に伝えようと、銃撃を受けた人、救助に協力した人たちの体験記などをまとめた冊子が、銃撃の日から七十年にあたる五日に出版される。この日、今年も事件現場の近くで「慰霊の集い」が行われ、慰霊碑に出版が報告される。 (村松権主麿)

 <『バリッ! バリッッ!』と凄(すさ)まじい音と同時に、真っ白い霧のようなものが窓から入ってきた(略)、列車内は『ウォーッ、ウォーッ』と、恐怖と悲愴(ひそう)の入り混じった人々のうめき声に包まれました>

 満員の車内にいた石井竹雄さんは、銃撃の瞬間と、パニックの様子をこうつづる。

 一緒に乗った友人を亡くした牧野澄枝さんは、鮮明な記憶を記している。<胸に弾が当たってうなりながら死んでいく人、体に二カ所も傷を受けてみるみる青ざめて死ぬ人、ああいうのはまさに地獄です>。現場に駆けつけた寺原秀雄さんも<車内は死傷者で文字どおり血の海と化し、二目と見られない悲惨な光景を呈していた>。

 これらの体験記を収録したのは、「いのはな慰霊の集い 三十年のあゆみ−中央本線四一九列車銃撃の体験記と日米資料」(揺籃(ようらん)社、税抜き千円)。企画したのは、地元住民らが一九八四年に結成した「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会(いのはな会)」だ。同会は、慰霊の集いを毎年開いたり、関係者の話を記録するなどしている。

 警察の記録では、五十二人が死亡したとされるが、周辺の病院に搬送された人などを含めると、死者は六十人以上いることが分かった。会の発足当初、二人しか分からなかった犠牲者の名前は、九二年には四十四人まで判明。全氏名を刻んだ慰霊碑を建てた。

 戦後七十年で冊子を出版したことについて、事務局の斉藤勉さん(57)は「太平洋戦争の恐怖体験を語れる人が減る中、今を逃したら機会は失われると危機感があった」と説明する。体験記は、呼び掛けに応じた九人の原稿に加え、これまでに寄せられた手紙や手記、体験者の孫の感想など、二十八人分が収録されている。

 会の活動記録や、会を取材したテレビ局が米国で情報公開請求した、当日の戦闘機の活動報告書なども掲載する。斉藤さんは「銃撃による被害の詳細を読んで悲惨さを知り、二度と戦争を起こしてはいけないと実感してほしい」と話している。

 冊子は八王子市内の一部書店などで販売される。五日の慰霊の集いは午後二時から。会場の慰霊碑は、JR高尾駅から京王バス「蛇滝口」バス停で下車。問い合わせは斉藤さん=電042(664)8615=へ。

湯の花トンネル列車銃撃事件> 1945(昭和20)年8月5日午後0時20分ごろ、現在のJR中央線高尾駅の西にある湯の花トンネル付近で、新宿発長野行きの列車に4機の米軍戦闘機P51が機銃掃射。列車は客車の途中までトンネルに入って止まり、複数回の銃撃にさらされた。警察などの記録では、乗客52人以上が死亡し、乗員を含む133人が負傷したとされる。P51は軍の飛行場などを銃撃するため、硫黄島から飛来した。
posted by 銀河流星 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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