2014年05月30日

【読売新聞の企画・連載「伝える 八王子千人同心」シリーズ<1>〜<5>】A

【読売新聞の企画・連載「伝える 八王子千人同心」シリーズ<1>〜<5>】@から続く
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〈4〉「日光山志」一級の史料 「勅額は後水尾」ぴたり
(2014年5月25日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/local/tokyotama/feature/CO007690/20140526-OYTAT50064.html

 修理のため取り外される東照宮・陽明門の勅額(2013年9月撮影)。日光山志は、この文字の筆者も正確に伝えていた

 1652年から幕末まで「日光火の番」を務めた八王子千人同心。その間、あわや東照宮炎上――という危機が何度かあった。

 日光の家屋の9割、約770戸を焼いた1684年の「貞享の大火」や1812年の大楽院火災はよく知られている。

 中でも東照宮の東隣にあった大楽院から出た火は、隣接する銅庫に延焼。修理のため保管されていた「東照大権現」と書かれた陽明門の勅額をも焼いた。

 このため後に本物そっくりに複製されたのが現在の勅額である。勅額は天皇の直筆を基にした額だが、江戸時代の文献でも筆者が複数あった。その中で正しい筆者を伝えていたのが八王子千人同心、植田孟縉(もうしん)が1837年に刊行した「日光山志」だった。

   ◇

 「植田孟縉」の著者で八王子市在住の地域史家、馬場喜信さん(76)によると、孟縉は父を幼い頃に亡くし、1775年、19歳で千人同心組頭・植田家の養子となる。

 学問に秀で、火の番を務める傍ら地誌創作にも励み、「新編武蔵国風土記稿」など、87歳で死去するまで多くの著作を残した。

 その一つである日光山志は、「日光初の観光ガイド」とされ、孟縉が勤番の合間に見聞した社寺の歴史や行事の由来などを簡明に紹介している。

 昨年から始まった陽明門の「平成の大修理」で、勅額の由来に関心が高まり、日光山志の記述の信用性が改めて確認された。

 東照宮の元神職、高藤晴俊さん(66)によると、江戸時代も現在同様、3面の勅額が東照宮に掲げられていた。正面の石鳥居、奥社鳥居、そして陽明門の3か所である。

 陽明門は別名「勅額門」。焼失した象徴を複製するため、手本を探すことになる。だが、そもそも誰の筆なのか、定かではなかった。「天皇の書は無署名が原則」(高藤さん)のためだ。

 東照宮の造営年代から、筆者は後陽成天皇と息子の後水尾天皇の2説あった。

植田孟縉が著した「日光山志」5巻

 「日光山名跡誌」(1728年)や「日光図誌」(1818年)は「後陽成」としていた。東照宮の業務日誌「社家御番所日記」も、火事翌年の記事で「江戸城二の丸東照宮にあった後陽成院の筆を手本に複製」と伝える。東照宮の宝物台帳も「後陽成」だった。

 その中で日光山志は「後水尾」としていた。なぜ孟縉は“真実”を伝えることができたのか。馬場さんによると、日光山志について孟縉は「すべて古記に出典があり、推測で記した事項は一つもない」としているという。

   ◇

 孟縉の日光勤番は14回。「通常なら9回ほど。日光の歴史と地理を究めるため、より多く火の番を務め、文献探索などに時間を費やしたのでしょう」と馬場さん。

 今でこそ「後水尾院御聞書」などの文献で、孟縉説の正しさを確認できる。だが江戸時代、こんな史料を見られたのだろうか。

 何を根拠に執筆したかは不明だが、5巻本として現存する日光山志は、今も江戸期の日光を研究するうえで一級史料とされている。

 修理のため取り外される東照宮・陽明門の勅額(2013年9月撮影)。日光山志は、この文字の筆者も正確に伝えていた


〈5〉今も息づく誇りと感謝 菓子、地酒、消防庁舎に
(2014年5月26日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/local/tokyotama/feature/CO007690/20140526-OYTAT50071.html?from=yartcl_popin

物産展で「葵千人」をPRする青木正明社長(15日、新宿駅西口のイベント広場で)

 今月15〜16日、新宿駅西口広場イベントコーナーで開かれた物産展。出店した八王子市の菓子店、青木万年堂の青木正明社長(53)も看板商品「葵千人」を必死にPRしていた。

 1818年創業の老舗。「葵千人」は1965年に青木さんの父秀雄氏(80)が、地元の歴史に名を残す「千人同心」にちなんで命名した登録銘菓だ。

 知名度のない発売当初は鎧(よろい)に身を包み「葵千人」と書いた幟のぼりを付け、八王子駅周辺でPRしたこともあったという。

 新鮮な地卵に北海道産バター、生クリームなどを使い、ほど良い甘さに仕上げている。一時経営が傾いたこともあったが、「その後復活できたのも、お客さんに支持された『葵千人』があったから」と話す。

 今も売り上げの半分以上をこの菓子が占めるという。昨年10月には、市の手みやげ菓子の決定戦「八王子T―1グランプリ」で市長賞に輝いた。箱売りのほか昨年末からバラでも売り、より求めやすいようにした。

 名実ともに八王子を代表する銘菓になった。「地元ゆかりの名を使う誇りを忘れず、生まれ育った八王子をこの菓子で今後もPRしていきたい」

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店頭に並ぶ「八王子千人同心」。「手みやげに喜ばれている」と話す大根原保さん(左)

 祖先に思いをはせ、喜怒哀楽を共に――。そんな願いから地酒にも千人同心の名は使われている。

 八王子、日野、多摩、稲城の4市の酒店で組織する八南酒販協同組合(本部・八王子市)は2007年、小沢酒造場(八王子市)と協力して本醸造「八王子 千人同心」を売り出した。

 その仕掛け人が、元理事長の大根原保さん(83)だ。「東照宮を守ってもらった日光の人は千人同心のことを大抵知っているのに八王子では意外と知られていない。誇れる祖先の活躍を知ってほしかった」

 やや辛口ですっきりした飲み口。当初720ミリ・リットルで売り出し、その後300ミリ・リットルと1・8リットルを追加した。各瓶の裏には「千人同心のしおり」と書かれた名刺大のラベルが貼られている。6種類あり、蔵元の小沢元巳さん(81)がその誕生や公務などの歴史を調べて作成した。

 小沢さんは「千人同心は八王子の誇り。飲んだ時に読んでもらい、話題にでもしてもらえれば」と話す。

   ◇

 千人同心への思いは今も日光で継承されている。

 今年3月、新築中だった日光消防署(栃木県日光市)の新庁舎が完成した。大通りに面した庁舎の一角には、江戸時代に日光火の番を務めた千人同心を紹介する展示室が設けられた。

 ガラス張り約8平方メートルのわずかなスペースだが、200年にわたる警備の歴史などがパネルで紹介されている。大門牧夫署長(58)は「八王子から守りに来てくれた人々がいたから今の日光がある。我々消防の先駆けでもあり、多くの人に知ってほしかったから」と設置の理由を話す。

 日光市と八王子市が姉妹都市となって40年。その縁を築いた千人同心への誇り、感謝の念は今も生き続けている。(おわり)
posted by 銀河流星 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 八王子カルチャー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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