2014年05月29日

【読売新聞の企画・連載「伝える 八王子千人同心」シリーズ<1>〜<5>】@

 読売新聞の企画・連載に八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)にスポットをあてたシリーズ「伝える 八王子千人同心」<1>〜<5>までがありましたわーい(嬉しい顔) 八王子の歴史として、ぜひ知っていただきたいので、紹介したいと思いますわーい(嬉しい顔)

 今年は、八王子千人同心の縁で結ばれた八王子市日光市との姉妹都市提携が40周年を迎えましたよわーい(嬉しい顔)

伝える 八王子千人同心
 栃木県日光市の世界文化遺産「日光の社寺」。この地を江戸時代を通じて警備したのが「八王子千人同心」と呼ばれた人々だった。今年はその縁で結ばれた八王子市と日光市との姉妹都市提携が40周年を迎えた。様々な人材を輩出し、今も多くの人々に影響を与える千人同心に光をあて、その功績などを再考する。(山田博文)

〈1〉「日光往還」160キロたどる 歴史愛好家2年半かけ
(2014年5月20日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/local/tokyotama/feature/CO007690/20140523-OYTAT50051.html

八王子千人同心が歩いた今市から日光へと続く杉並木を歩くボランティアガイドの一行(4月21日、栃木県日光市で)

 4月下旬、栃木県日光市である“快挙”が達成された。2011年10月、八王子市をスタートした高齢者5人が、今市から日光までの約8キロを歩き、2年半をかけて日光までの約160キロの道のりを踏破したのだ。

 歩いたのは八王子市郷土資料館でボランティアガイドをする歴史愛好家。内田和隆(65)、福士堯夫(70)、中村昌弘(74)、成瀬正吉(76)、鵜沼稔(76)の各氏。

 歩いた道は江戸時代、八王子千人同心が幕府の命を受け、東照宮のある日光を警備する「日光火の番」で通ったルートである。

 八王子から埼玉県坂戸市や栃木県佐野市、鹿沼市を経て、今市から日光に至る。「日光(脇)往還」や「千人同心街道」などと呼ばれた。

   ◇

 八王子千人同心とは、1582年に滅んだ甲斐武田家の遺臣らを中心に組織された江戸幕府の軍事集団だ。

 豊臣秀吉の天下統一で関東に国替えとなった徳川家康が甲斐方面に備え、江戸と甲州の境にある八王子周辺に武田の遺臣を配置したことに始まる。

 旗本である10人の千人頭の下に組頭や同心が100人、総勢1000人いたのが名の由来とされる。

 千人頭らが住んでいた周辺は今も「千人町」として八王子の地名に残る。ただ多くの同心は、千人町以外に住み、公務の時は武士扱いだが、平時は農耕などにも従事した。武士と農民という二つの身分を持つ珍しい集団でもあった。

 当初は国境警備のほか、関ヶ原の戦いなどにも出陣した。だが、太平の世になると軍役は減り、1652年6月から日光を警備するのが主な任務になった。

 この日光勤番は、八王子と日光を往復ともに3泊4日で歩いた。時期により変わるが、原則、千人頭2人に各配下の同心50人の計100人が50日交代で勤めた。勤番は幕末まで216年余り続き、1030回に及んだという。

   ◇

 5人は八王子周辺の史跡巡りを楽しむ仲間だった。「ある時、日光往還を歩いてみようと盛り上がり、挑戦が始まったのです」と世話役の内田さん。

 今回まで延べ12日間、春や秋に日帰りで旅程を継いだ。いつも好天だったわけではない。途中から大雨に降られたこともあった。川を渡る時など「橋がなかった昔はさぞ大変だったろう」と先人に思いをはせた。

 鵜沼さんがしみじみ語った。「我々は天気が悪ければ歩かないし、真夏や真冬は避けた。でも千人同心は八王子を出たら3泊4日で日光。大したものです。歩いて初めてわかりました」

 寒暑の厳しい日光で客死した者も数十人に上る。日光市匠町の浄光寺には、彼らを供養する防火隊碑が1834年に建てられた。

 さらに1958年、東照宮の参道脇に長年の活動に感謝する碑が建てられた。5人は双方を丁重にお参りした。千人同心が縁となり、八王子市と日光市は74年4月、姉妹都市になる。

 それに先立ち、八王子では、祖先の遺徳をしのぶ、子孫の会が設立されていた。


〈2〉祖先は誇り「旧交会」400人 平均70歳超漫画でPR
(2014年5月21日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/local/tokyotama/feature/CO007690/20140523-OYTAT50056.html

「八王子千人同心旧交会」の会報を説明する新藤さん(左)と野嶋さん

 八王子市の歯科医、新藤恵久(よしひさ)さん(86)は今年3月、同市立第三中に招かれ、約300人の生徒に八王子千人同心について講演した。

 地元の歴史を学ぶ総合学習の一環。千人同心の成り立ちから、公務の時は武士で、平時は農耕にも従事する特殊な存在だったことなどを約50分、わかりやすく説明した。「名前しか知らなかった」「これから知りたい」。後日、こんな感想が届いた。「少しでも興味を持ってもらえれば」。新藤さんはそう期待する。

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 新藤さんは、千人同心の子孫でつくる「八王子千人同心旧交会」の第3代会長を2008年から務める。

 明治になり、千人同心だった者や旧幕臣の子孫の会がいくつかできた。そのうちの一つが「舊交會(きゅうこうかい)」という名で、太平洋戦争終結まで続いた。だが、戦後の混乱で会は自然消滅した。

 その後も子孫の交流は続いた。明治維新から100年、祖先の遺徳をしのび、功績を後世に伝えようという機運が盛り上がった。

 そして1968年6月、千人頭の末裔(まつえい)である山本正三郎氏のほか、粟澤豊一、渡辺正胤、八木岡栄三郎の各氏が奔走し、新たな会が発足した。それが「八王子千人同心旧交会」だ。

 「子孫の会」や「千人同心の会」など名前の候補はあった。その中で「旧交を温める」目的や明治から昭和まで続いた会の名を取り、「旧交会」となった。

 発足時の会員は516人。初代会長には山本氏が就任した。85年に野口正久氏が会長となり、死去後、現在の新藤氏へ。半世紀近くたつ今も、会員は八王子を中心に約400人に上る。

 副会長の野嶋和之さん(58)によると、親睦と研修を兼ね、年2回、日光などゆかりの地を訪ねるほか、2004年から定期的に会報を発行している。野嶋さんは「どんな暮らしをしていたのかなど、各家に残された文献などを基に新たな史実の発表や事績の検証を行っている」と話す。祖先を誇りに思う気持ちは強い。

   ◇

 目下の悩みは、会員の高齢化だ。「平均年齢は70歳を超えている」と新藤さん。若い世代に関心をもってもらうため新藤さんは、4年前、地元の漫画家と協力し、千人同心などをわかりやすく紹介する歴史漫画を出版した。反応は上々だった。「入り口は私の講演でも漫画でもいい。郷土の歴史に関心と愛着を持つきっかけになれば」と話している。

 火の番を幕末まで続けた八王子千人同心からは、徳川の聖地・日光を戦火から救ったとされる人物や「日光初の観光ガイド」を著した人物など、多彩な人材が輩出された。知られざるその活躍、遺族の思いを次から紹介しよう。


〈3〉徳川の聖地救った勇気 悲運の頭・石坂義礼語り継ぐ
(2014年5月24日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/local/tokyotama/feature/CO007690/20140524-OYTAT50028.html

石坂弥次右衛門義礼の悲劇を伝える紙芝居を演じる野村真祐さん(4月22日、八王子市郷土資料館で)

 紙芝居は佳境を迎えていた。「黙らっしゃい! 弾がなければ戦にならぬ」。読み上げるボランティアガイドの野村真祐さん(78)の声に力がこもる。

 4月下旬、八王子市郷土資料館で披露された「日光と八王子千人同心」。戊辰の役で、徳川家康をまつる日光に籠もる旧幕府軍と板垣退助率いる新政府軍が、戦うかどうかという場面だ。

 紙芝居では弾薬のない中、戦も辞さずという者を日光勤番の八王子千人隊(1866年改名)の頭、石坂(いしざか)弥次右衛門義礼(やじえもんよしかたが)一喝。旧幕府軍は日光を去り、日光は戦火を免れる。だが帰郷後、不戦による降参の責めを負い、石坂は自害。享年60。

   ◇

 紙芝居を作ったのは同資料館のボランティアガイドのグループだ。「紙芝居で地元の歴史を伝えよう」と、2006年から八王子に寺院を開いた武田信玄の娘松姫や太平洋戦争時の空襲をテーマに紙芝居を創作。今も月1度、公演を続ける。

 3作目に「八王子の歴史を語るうえで欠かせないもの」として千人同心を取り上げた。主人公になったのが「日光を戦火から救った」と伝わる石坂だった。

 石坂は急死した千人頭の代役として日光勤番に赴き、歴史に翻弄された。そんな史実を基にガイドの一人、大島友次さん(53)が原作を書いた。これをグループの4人で脚本を練り、2年10か月をかけて、昨年11月に完成させた。

 宇都宮市出身の大島さんは言う。「日光は身近な存在であり、栃木県民の誇り。それが今に伝わるのは、こんな人々に守られていたからだと知ってほしかった」

   ◇

 今年は「日光の社寺」が世界文化遺産に登録されて15周年。社寺の近くには、「日光を救った恩人」として板垣退助の銅像が立つ。

 日光の歴史に詳しい日光山興雲律院の中川光熹住職(76)は「旧幕府軍が意地を通せば、日光は戦火に包まれた。日光を思い撤退した者の勇気も忘れてはならない」と指摘する。

 石坂の死は「病死」として届けられた。明治になり、石坂家は徳川家に従って静岡へ移り、後に東京へ戻る。

 現在、石坂の玄孫にあたる栄夫氏(82)が石坂家15代当主として稲城市に住む。闘病中の栄夫氏に代わり、次男の圭司氏(51)が語ってくれた。

 「切腹を『家の恥』と考えたのか、義礼のことは代々伝えられてこなかった。自分が意識したのも八王子の墓に行った時で、ここ15年ほど。誇らしいと思う反面、無念だったろうとも思う」

興岳寺にある石坂の墓。墓前には日光市から贈られた香台がある

 石坂は現在、菩提寺である八王子市千人町の興岳寺に眠る。土井俊玄住職(78)によると、今も参拝者が時折訪ね、花を手向けているという。墓前には日光市から贈られた香台がある。墓は1958年4月、八王子市の史跡に指定されている。境内には66年4月に顕彰碑が設置された。日光東照宮の稲葉久雄宮司(73)は「今日の日光があるのは、火の番を務めた千人同心のおかげ。日光と八王子が今もその縁で結ばれているのは、素晴らしいこと」と話している。


【読売新聞の企画・連載「伝える 八王子千人同心」シリーズ<1>〜<5>】Aに続く
http://welovehachioji.seesaa.net/article/398159356.html
posted by 銀河流星 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 八王子カルチャー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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